開き直り

「桜が開花」のニュースを聞き、私はまたひとつケフィの不在を数えた。
この季節は、桜並木の河川敷がケフィとの散歩コースだった。
「ほら、河津桜が咲いたよ」
「ソメイヨシノのつぼみが膨らんだね」
「八重桜がもうすぐ満開だよ」
そんな話しをしながら、ケフィとわずかな季節の変化を楽しんだ。ケフィは目をぱちぱちさせながら桜の花を見上げたり、その幹の匂いをかいで、春の訪れを感じていた。
だけどもう、ケフィと桜を見ることはない。今年は河川敷にも足を運ばない。
それでも桜の便りを聞くだけで、車窓から桜の花を見るだけで、ケフィの「不在」を感じてしまう。そのたびに、ケフィとでんがいた頃を思いだしてしまう。
自分を責めるのはやめた

ケフィは16年もの間、朝になると強制的に私を起こしてボール投げをさせ、トイレを要求した。自宅で仕事をしている日は、昼になると「ゴハンちょうだい」と言い、夕方になると「散歩の時間だよ」と足踏みしながら、パソコンに向かう私の膝にあごを乗せて催促した。
離れていても、「今頃昼寝してるかな」「そろそろトイレに行きたいだろうな」「夕飯はケフィの好きな手巻き寿司にしよう」「早く帰って散歩してあげなきゃ」などと、私の思考に入り混み、私にさまざまな拘束を与えた。
強制的に私を連れ出し、ともすれば季節どころか朝昼晩の境さえ忘れがちな私に、季節の移り変わりを教え、一日に区切りをつけてくれた。そんなケフィの横にはいつも、でんがいた。
それが私の毎日であり、16年間だった。たった3カ月でリセットできるわけがないではないか。

ケフィでしか埋められない
新緑の時期になれば、木陰で涼むケフィのことを思い出すだろう。梅雨に入ればレインコートを着て散歩したケフィとの時間が甦ってくるだろう。初夏になれば海でボールを「持ってこい」するケフィが、秋になれば紅葉のなかでトレッキングしたときのケフィを思い浮かべるだろう。
これからもしばらくの間、ケフィの「不在」を数えながら、めそめそして過ごすことになるだろう。どれもこれも当たり前のことだ。
以前、「みーちゃん」さんが書いてくれたように、ケフィの「穴」はケフィでしか埋められないのだから。




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